はしもとさんの雑多なブログ

いろいろ書いてます

虫歯

人生で自慢できる事。

虫歯になった事がない。

これだけが人生で自慢できる事だった。

 

親知らずが虫歯になりました。

 

7月中旬。

奥歯に何か詰まっている気がするなあ、と触っていたら、奥歯がなんか欠けている気がしました。気のせいであってほしいなあ、と思っていたら翌日から痛み出しました。

人生で初めての、歯痛。

にぶい、脈打つような痛みが、ほんのちょっと。

 

歯医者に行くかは置いといて、近隣の歯医者を調べることにしました。

ま、まあ、元から「歯周病予防とかでクリーニングに通いたいなあ」とか思ってましたしね。いい機会じゃあないですか。歯医者が怖すぎて行くタイミング逃してたしね!!

歯医者、多いなあ。矯正を専門にした歯科医院が多いなあ。矯正は今関係ないんだよなあ。怖いなあ。優しくしてくれて痛くない事に定評があって、腕のいい先生とか、都合よくいないかなあ。

……いないなあ……。

 

仕方がないので、態度がキツイというレビューは多いものの、腕がいいと評判で、家から近い歯医者にする事にしました。

予約の電話をかけてみると、受付のおねえさんは丁寧でいい感じ。

2日後に予約が取れたので、20年以上ぶりに歯医者に行くことが決まりました。

 

さて当日。

最後に歯医者に行ったのは乳歯が永久歯に生え変わるころ。グラグラの乳歯を抜いてもらうために行ったものの、泣き叫びすぎて「うちじゃ見れない」と言われ、それを聞いてブチ切れた父親に自宅で無理矢理乳歯を引っこ抜かれたのが最後。

リアルに恐怖に震えながら歯医者に向かいました。

 

受付のおねえさんは淡々としているものの、丁寧さは感じていい感じ。

問診表を書き、5分くらい待ったあと、頭のまわりをぐるっと回る、何やらカッチョイイやつでレントゲンを撮られ、そのまま診察室へ。

イメージしていた歯医者より、あの独特の歯医者のにおいもしないし、なんだかきれいでオシャレな診察室です。

 

「はいじゃあ、歯見せてね」

歯医者にあるあの椅子に乗ると、心の準備をする間もなく診察開始。

口の中をシャーーーとやられ、歯茎に何かをプスプスされ、奥歯をグイグイ。痛みは特になく、ビビってたほどじゃあないじゃない!やあねえほんと小心者なんだから!などと内心調子に乗ります。

体感としては15分、実際は5分くらい。

小心者、ビビり散らかして体感時間が3倍。

 

椅子を元に戻すと、間髪入れず先生は言いました。

 

「上の親知らずが左右とも虫歯。あと軽度の歯周病歯周病ってのはね……」

 

虫歯!?抜歯!?と混乱する私を置いて、チャキチャキと歯周病の説明を始める先生。

あら、なんだかわかりやすいスライド……あ、そうなの、歯周病ってそうなのねえ……。

 

……。

いや今虫歯って言ったよねえ!?抜歯って言ったよねえ!?

 

あ、歯ブラシ買って、あ、はい、フロス、はい……。

自分の場合は親知らずは抜いちゃった方がいい……はあ、なるほど……下の親知らずは大学病院に紹介状……はあ……。

 

怒涛の勢いで歯周病の説明と、歯周病治療の話、それから抜歯について説明され、最早放心。情報量が多い。多いよ。

ひとまずクリーニングをされる事になり、気が付いたらクリーニングをされていました。

痛くはない。歯茎がちょっとかゆいようなむずむずするような。

歯磨きの仕方とフロスの使い方を教わり、この日の診察は終了。

 

帰り際、次回の予約を取りながら

「今痛いのどっち??左??じゃあ来週抜歯するのでそのつもりで」

と言われ、力なく頷いて帰路につきました。

 

帰宅後、夫に

「抜歯だって……抜歯……」

「ところで虫歯って想像より痛くないのね」

などと言いながら、数か月ぶりにやけ酒をしました。

 

こうして、私の人生で唯一自慢できる

「虫歯になった事がない人生」

は幕を閉じたのでした。

 

次回!!抜歯!!つづく!!!

 

 

優先席

みなさん、優先席って座りますか?

私はよく座ります。

 

よく座るようになったきっかけ。

高校生の頃、電車内で具合が悪くなる事が多くなった。パニック障害的なアレである。

どうしても人混みがダメ。でも学校には行かなくちゃいけない。電車に乗らないわけにはいかない。でも具合はどんどん悪くなっていく。

一度電車内で倒れて以降、おっかないので優先席付近に立つようにしていた。

当時どれだけ顔色が悪かったのか、席を譲ってもらえる事もあった。

弱っていたのもあるのだろうが、それがなんだかとてもうれしかった。

 

松葉杖をついていた時期もあった。その時も、慣れない松葉杖で疲れるし、転びそうだし、なんだかおっかないので優先席付近に立つようにしていた。

その時も席を譲ってもらえる事が何度かあった。

一般の座席付近では一度もないのが、また不思議であった。

 

元気になってしばらく。

精神的に調子が悪く、いつ発作的に具合が悪くなるかわからない時期があった。あったというか、今も時々そんな調子だ。

おっかないのでまた優先席付近に立つようにした。

幸い、席を譲って欲しいなあ、というレベルで具合が悪い、という事態にはならずに済んでいる。

 

そんな時、ぼんやり考えた。

優先席の周りには、座席を必要とする人が集まる。

今すぐに必要ではなくても、必要になる可能性を持っている人も集まる。

当たり前の事かもしれない。でも、必要である・必要になるかもしれない、そんな人達が譲り合いながらあの空間を使っている。

 

中にはただ、空いていたから座っている人もいるのだろう。優先席って空いてる事も多いし。

最近だとイヤホンをしていたりスマホを見ていて、必要な人が来ても気が付かない、なんて事もたくさんあるのだろう。

優先席なのだから周りを気にかけて欲しいなあ、とは思う。

ただ、自分が座席を本当に必要としていた時、譲ってくれるのは一見元気そうな人達ではなかった。高齢の方だったり、どこかを怪我している人だったり、ヘルプマークや妊婦さんマークをつけている人の方が、なぜか譲ってくれるのだ。

まあその一見元気そうな人達も、外から見てわからないだけで何かしら疾患を持っていたり、体調が悪かったり、物凄く疲れていたりするのかもしれない。

それは本人しかわからないので、憶測で決めつけたり責めるつもりはない。

でも割合として、なんとなく。周りを見ていない・気にかけていない人は確かにいるのだろうな、と。

 

そう考えてから、ガラガラの電車内では優先席によく座るようになった。

譲れる座席をひとつでも確保したい、みたいな気持ちだ。

……ただ単に空いてるなら座りたい、というのもあるのだが。

慢性的に腰が悪いので、座れるなら座っておきたい。先程も書いたが精神的なもので、座っている方が楽なのも事実だ。

 

電車が駅に到着する度に、スマホから目を離しキョロキョロする。

ヘルプマークや妊婦さんマークをつけている人、高齢だったりどこかを怪我している人を見つけたら声をかける。最近は子連れで大変そうな人なんかも、見かければ声をかけるようにしている。

私の慢性的な腰痛なんかより、この人達の方が座席を必要としている。

具合の悪そうな人にも積極的に譲りたいのだが、それは外からではわからない事も多く難儀している。

声を掛けて貰えれば喜んで譲るのだが、きっとそれも難しい。

自分の過去の体験としても、声を掛けていいのか、声を掛けるほどのものなのか、迷惑にならないか、自分より座席を必要とする人なんていくらでもいるのに、など色々考えてしまって、なかなか言い出せなかった。

なにより、無視されちゃったりしたらただでさえ具合が悪いのにかなりショックである。

それでもなるべく、具合が悪いのなら声をあげて欲しいなと個人的には思う。それで倒れたりする方がもっと大変だし、案外席は譲ってもらえる。と思う。

 

そういえば。

身体の調子があちこち悪いのでよく病院に行く。

定期通院先の中に大きな病院があって、私の用事のある科は最上階。階段で行くのはちょっとしんどいので、エレベーターを待つ。

そうすると高齢の方、松葉杖をついた人、車椅子の人、ベビーカーの人など、どう考えたってエレベーターが必要な人達が沢山エレベーターを待っている状態になる。

いくら体調が悪くて病院に来ているとは言っても、絶対にエレベーターが必要な人達が優先だ。

 

そう思ってエレベーターホールで10分近くエレベーターを待っていた事が何度かある。

 

我ながらアホである。

最初から階段を使えばいいのに。結局階段を使うのに。

 

上手いことエレベーターに乗るタイミングを掴める人間になりたい。

気が付いた人がやる

生活しているとちょいちょいあること。

「気が付いた人がやったらいいじゃん」

私はどうにもこいつが許せない。

 

最近仕事をしていて気が付いた。どうやら私は「気が付く側」らしい。

 

必要な事だけど、誰もやってないよなあ……となんだか気が付いて、しかたがないからその仕事を片付けている。

よく考えれてみれば、今までの社会人生活の中では珍しい事ではなかった。

給湯室のポットの水を補充してくれたとか、ちょっとした掃除やゴミ出しをしておいてくれたとか、そろそろ無くなりそうだった備品を頼んでくれていたとか、そういう誰かがやっておいてくれた事もなんだかんだ気が付く。

 

自分がやってる事も、誰かがやってくれている事も、周囲の人は思ったより気が付いていない。

当然、評価が上がるわけでも、給料が上がるわけでも、感謝されるわけでもない。

だって気が付いてないんだもの。

 

気が付かない周囲の人は全く負担がないのに、どうしてか自分はいつでも手一杯になってしまう。きっと自分と同じく気が付いてしまう人は、同じように手一杯になっていくのだろう。

よくよく思い出してみれば、ちょっとした事をやってくれている人って、だいたい同じ人だった。

 

それがしんどくなって

「分担を決めましょう、当番制とかにしましょう」

と伝えても、気が付かない、気が付かないからやらない人に限って

「気が付いた人がやればいいじゃん!」

と言ってくる。

気が付いてるけど、やりたくないから気が付かないフリをして、気が付いた人に押し付けて楽したいんじゃない?と邪推したくなってくる。

 

気が付いて、自分で片付けなくちゃと思って、勝手に手一杯になってる部分もあると思う。

協力や分担を要請しても駄目だったので、気が付いても何もせずにいてみた事もある。

気が付いていてスルーするのも、なかなかストレスが溜まるものなんだなあ、という新たな気付きを得た。

いつか終わらせなくてはならない、誰かがやらないと終わらないタスク、というものが着々と積み重なっていく。気が付いた時に都度都度やっておけば楽なものも、積み重なるとだいぶボリューミー。ああ、これ片付けるの、結構めんどうくさいなあ。

それくらいになると、やっと気が付かない人達は気が付く。そして言う。

「やっておいてくれたっていいじゃん!」

なんでだよ。

「これ〇〇さんやってくれてたじゃん!」

お、気が付いた?

「だから〇〇さんがやったらいいじゃん!」

おっと、なんだか係に任命されてしまったぞ。

 

気が付いているのにスルーするのも、まあまあストレス。

自分で片付けても、いつかは手一杯になる。

一旦手を付けると、なぜかそれの係になってしまうらしい。

でも、誰かが気が付いてやらないと、それは一生終わらない。

 

あまりにも、気が付いてやってくれる人の善意に頼ったシステムである。

どうにもこうにも、私はこいつが許せない。

 

学生時代は、こんな事なかったと思うのだけれど。

決して気が利くタイプではなかった。よく気が付くタイプでもなかった。

中高と女子校だったのもあるのだろうが、自分より気が利く人も、要領がいい人も、優しい人もたくさんいた。

私が気が付いた頃には既にやっておいてくれていて、ただただ感謝する事しかできなかった覚えがある。

 

そういう人たちの姿を見て、知らず知らず学んでいたりしたのだろうか。